FROM:Weekly Akita Press Editorial Room
<< January 2018 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
佐竹城下を歩く17 - 霜別 -


     ▲茨島交差点の付近、太平川と旭川の合流地点


 ▲緑の矢印が撮影場所  大きな地図で見る

太平川を「霜別」と書いた古記録がある。霜別はアイヌ語で「シモン・ベツ(右の川)」の意ということは、これまで郷土史家の間で言われている。まだ仮説ではあるが、筆者はアイヌ語ではなく東北方言の古語ではないかと思う。

有史以前、和人が北海道へ東北から渡っているのは当然だが、東北方言もアイヌへ伝わった。だから、東北の方言の古語がアイヌに残ったのは不思議でない。

それはともかくとして、霜別が添川(仁別川)と並記されているところから、寺内の秋田城に立って見ると、右側の川が太平川に当たるのでうなずける。

元慶2(878)年の蝦夷大反乱を記した記録には、新屋方面の大川(雄物川)を霜別と表している。これも秋田城から秋田平野を望めば、新屋方面は右方に当たる。つまり、霜別はもともと固有名詞ではなく、普通名詞なのであった。

太平川を覇別(はわけ)と書いた古記録もある。添川と並記しているところから太平川だろうと推測できるが、意味はまったく分からない。おそらく、字形が似ているところから、だいぶ古い時代に霜を覇と読み違うか、書き違いしたのであろう。だが、別(川)を「ワケ」と読むのはおかしい。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。

佐竹城下を歩く16 - 長野町 -


    ▲長野町の街並み(アトリオン東側の通り)


 ▲緑の矢印が撮影場所  大きな地図で見る

町名は長野様屋敷に由来している。窪田築城のころ、仙北郡長野村紫島城主・佐竹北家の窪田屋敷がここにあった。当時、北家を長野様と呼んでいたのである。長野様の屋敷のある町なので、長野町と言った。なお、紫島とは露草の群生している谷地という意か。

長野町は東に大沼、南に大堀、西に高い土塁、北に大手門という一郭を形成していた。さしづめ、長野丸といったところか。

北家を筆頭に、一門と最上級家臣の屋敷があった。長野町下の東方の沼から南の大堀に続く地域は、長野下と呼ばれるようになった。

長野町は西下の土手谷地町とともに、明治以降は陸軍歩兵17連隊の地となり、終戦後はしばらくの間、秋田高校がこの地にあった。そのころは、野球部の練習を土手に寝転んで見物している人たちがいたものである。あの土手が、長野町西側の土塁の跡である。

なお、北義廉(よしかど)の死去後、長野紫島城は破却されるが、北家は義宣の末弟・義継が後嗣となり、知行地もこれまで通り与えられた。また、窪田屋敷も同じ屋敷に居住し、長野様の呼称は残った。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。

佐竹城下を歩く15 - 百部野 -


      ▲保戸野川反橋から眺めた旧・保戸野川反町。


 ▲緑の矢印が撮影場所 大きな地図で見る

梅津政景の日記に書かれてある数箇条の文面から察するに、保戸野が該当する。しかし、まったくの保戸野ではない。後世の鷹匠(たかじょう)町から中島、保戸野八丁、保戸野川反町、保戸野本町、保戸野仲町にかけての地域と思われる。

当時、添川(現・旭川。古くは仁別川とも言った)は、今の千秋公園直下を包むように流れており、そこにはいくつかの入り江があった。少なくとも4〜5ヵ所あって、後の外堀や内堀になった。

藩祖・義宣は新中島から5丁目橋辺りまで川を掘って運河とし、旧川は外堀・用水路とした。なお、5丁目橋から馬口労町橋までは在来の川を深く掘った。

百部野(もののべ)とは「入り江の多い川の岸辺の野」という意が考えられる。アイヌ語ではない。奥羽方言か大和言葉の古語である。今の北の丸辺りから広小路にかけて、曲がりくねって千秋公園の下を流れていた添川が容易に想像できるであろう。

後に百部野は掘った川によって分断され、その名は消滅した。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中

佐竹城下を歩く14 - 楢山天徳寺 -


   ▲参詣ルートに作られた百石橋(奥に見えるのが金照寺山)


 ▲緑の矢印が撮影場所 大きな地図で見る

天徳寺は初め、楢山にあった。今の金照寺山の麓(ふもと)である。JR羽越線の踏切を越えた、古い墓石群の点在する辺りである。だから、当時は金照寺山を天徳寺山と呼んでいた。これに参詣するため百石橋はその建立と同時に作られ、当時は天徳寺橋と呼ばれていた。

窪田城からこの天徳寺への道順は二つあった。

ひとつは、中土橋〜東根小屋町〜亀ノ丁東土手町〜楢山表町〜古川新町(寺小路)〜百石橋。もうひとつは、上土橋〜長野町〜長野下〜明田畷(明田街道)〜富士山下〜楢山村〜古川新町〜百石橋。

長野町経由は藩主のプライベートな場合、上級家臣の通常のコースであった。しかし、この絵図は現在、秋田にはない。筆者は図らずも、他県で見ることができた。資料は必ずしも地元にあるとは限らない。他県にあるものがむしろ正確な場合もある。

なお、楢山天徳寺が焼失したのは寛永元(1624)年12月27日の夜である。翌年、泉村の泉山麓への移転が決まった。これが今の天徳寺である。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中

佐竹城下を歩く13 - 大膳山 -


  ▲現・明徳小学校の地は初め、大膳山と称された。


 ▲緑の矢印が撮影場所 大きな地図で見る

現・秋田市立明徳小学校の地である。

佐竹義宣が秋田入部した年、石塚大膳義辰(よしとき)をこの地に城代として配置した。

当時、現・千秋公園は三森山と呼ばれていた。土崎湊から眺めると、後の北の丸・大膳山・本丸が三つの森になっていたからであろう。また、神明山とも呼ばれていた。頂上に神明社があったからである。その昔は土地の氏神であったと思われる。

ここはもともと安東氏の支城で、三浦氏の居城であったが、天正18(1590)年に豊臣秀吉の城割令を遵守して安東実季が廃城とした。

義宣は慶長8(1603)年にここを佐竹氏の府城として築城し、同12年に大膳山の石塚氏を広小路に移した。その跡へ八幡社を祀り、以後この地は八幡山と呼ばれるようになる。明治に入って八幡社が一時、広小路の石塚氏屋敷跡へ移転。八幡山はその後、秋田市上水道の貯水池となり、水道山と称されるようになった。

大膳山は窪田城の一郭であり、中世城郭の名残を今にとどめている。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中