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佐竹城下を歩く21 - 長沼 -


    ▲拠点センター・アルヴェから長沼を望む(奥が富士山)


 ▲矢印が写真の撮影場所 大きな地図で見る

旧長野町から上中城町へかけて東方一帯は、佐竹氏入部以前は広大な沼地で、黒沼と呼ばれていた。それよりかなり昔は、この沼へ仁別川、太平川が流れ込み、やがて仁別川は三森山(現・千秋公園)の西側に回り、太平川は富士山(ふじやま)の北側へ流れが変わった。

入川(いりかわ)はここを水源として、築地・楢山を通って仁別川へ合流した。入川は仁別川の跡かもしれない。黒沼は佐竹氏入部以後、長野町の下の沼というので長野沼になり、「野」が抜けて長沼と呼ばれるようになった。

標高わずか35メートルの富士山が沼の向こうに屹立しているので、高く目立って見えた。沼を前にした景色は絶景で、まさに長沼のシンボルであった。水戸城下の千波沼を思わせて皆、懐かしんだ。富士は不二である。つまり、ふたつとない立派な山に、間もなく常陸から磯前神社が勧請されて信仰の山となる。

義宣は天徳寺を建立するため、窪田築城と同時に長野下から富士山に通じる道を土手で造成した。だから、この道を土地の者は長土手と称していた。この土手より南方は、干拓されて原野となり、水田となっていく。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。