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佐竹城下を歩く22 - 根小屋町 -

 
      ▲秋田市西根小屋町の街並み(中通小学校の西側)。


 ▲矢印が写真の撮影場所 大きな地図で見る

根小屋とは本城と城下の町を結ぶ中間にあって、城の山麓に作られた武士団の家屋敷の集落で城郭の一部である。それが地名となった。

関東・中部地方にあって、西日本・東北地方にはない。南九州の「麓」、東北地方の「館巡(たちめぐ)り」などが根小屋に相当する。

奥羽山間に残る「根小屋」「寝小屋」の地名は、木の根の加工の作業所、炭焼きのために泊まる小屋が由来である。秋田市の根小屋町名も同じと信じている人もいるが間違いである。

根小屋は佐竹の前任地・常陸に多い。中でも、片野村の根小屋が有名である。片野城は根小屋にあった。

永禄年間(1558〜1570年)に太田資正が造った城で、根小屋(後に片野村から分村)の地名の由来もそれに因るという。

石塚義辰はそこの城主であった。彼は窪田で自分の住む町を根小屋町と名付けたかもしれない。それは常陸への郷愁と、「我が家こそ佐竹を守る根小屋なり」という自負からだろうか。石塚屋敷は中土橋を守る広小路と東根小屋町の角である。

義辰の旧領・石塚村にも根小屋川や根小屋橋といった名称が今も残っている。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。

佐竹城下を歩く21 - 長沼 -


    ▲拠点センター・アルヴェから長沼を望む(奥が富士山)


 ▲矢印が写真の撮影場所 大きな地図で見る

旧長野町から上中城町へかけて東方一帯は、佐竹氏入部以前は広大な沼地で、黒沼と呼ばれていた。それよりかなり昔は、この沼へ仁別川、太平川が流れ込み、やがて仁別川は三森山(現・千秋公園)の西側に回り、太平川は富士山(ふじやま)の北側へ流れが変わった。

入川(いりかわ)はここを水源として、築地・楢山を通って仁別川へ合流した。入川は仁別川の跡かもしれない。黒沼は佐竹氏入部以後、長野町の下の沼というので長野沼になり、「野」が抜けて長沼と呼ばれるようになった。

標高わずか35メートルの富士山が沼の向こうに屹立しているので、高く目立って見えた。沼を前にした景色は絶景で、まさに長沼のシンボルであった。水戸城下の千波沼を思わせて皆、懐かしんだ。富士は不二である。つまり、ふたつとない立派な山に、間もなく常陸から磯前神社が勧請されて信仰の山となる。

義宣は天徳寺を建立するため、窪田築城と同時に長野下から富士山に通じる道を土手で造成した。だから、この道を土地の者は長土手と称していた。この土手より南方は、干拓されて原野となり、水田となっていく。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。

佐竹城下を歩く20 - 百三段 -


  ▲旧雄物川の東側から勝平山麓を望む


 ▲緑の矢印が撮影場所 大きな地図で見る

百三段と書いて「モモサダ」と読む。毛毛佐田の表記もある。いずれも当て字である。浜田・新屋・石田坂の総称で、今でもこの地区の人はこの地名を使うことがある。

語源は、坂上田村麻呂が朝敵の豪族・女米木の夜叉鬼を攻めて男鹿に逃げたのを追撃し、新屋の大川(雄物川)を渡るのに柴百駄を集め、筏にして渡った故事に因る。

百三段は昔、勝平山南麓にあったが、天長7(830)年正月3日の大地震で壊滅、住民は現在地に移住したと伝えられている。近世初めは最上領であったが、元和8(1622)年に最上氏が改易となった。このとき、佐竹義宣が幕府に願い出て、仙北の江原田・木売沢と交換して佐竹領となった。

交換を願い出た最大の理由は、大川をひとつ隔てた他領があまりにも窪田城下に近かったことと、雄物川舟運を独占したかったからである。後世、これが大正寺事件として亀田藩との紛争の遠因となる。

外様大名で、しかも関ヶ原の科がある佐竹氏がこれを願い出られるということは、義宣と徳川秀忠の信頼関係がいかに厚かったかを物語っている

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。

佐竹城下を歩く19 - 下北手古道 -


  ▲近年になって、古道のルートは広域農道として整備された。
     高速道路のICも付近にあり、車の往来は激しい。


 ▲緑の矢印が撮影場所 大きな地図で見る

佐竹氏が入部して間もなく、羽州道は湊から寺内・窪田を通り、牛島・目長田を経て豊島に至る近世羽州街道となった。

それ以前は、湊から今の外旭川・手形山・下北手を通って旧河辺町の畑(はた)へ通じる道であった。この道は生活道路としてその後も利用され、昭和30年代でも結構往来があった。

しかし、昭和40年代に入ると車社会になって歩く人もなくなり、昭和50年代になると河辺町の畑と秋田市下北手の宝川の間は道の跡形すら消え去り、幻の街道と呼ばれるようになった(現在は広域農道が開通)。

筆者が昭和58年にこの道を下北手側から踏査したときは、木が覆いかぶさって藪が高く繁茂し、泳ぐようにしてかき分けながら登り下り、やっとの思いで目的地の畑にたどり着いたことを覚えている。

慶長9(1604)年、幕府の命令で一里塚の制定による近世羽州街道ができるまで、窪田からはこの宝川・畑の間の道のほかに、今の上北手を通って豊島に至る道もあった。この上北手古道は、羽州街道ができてからも長雨や洪水の際に、迂回路としてよく利用された。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。

佐竹城下を歩く18 - 太平 -


  ▲太平川沿いにある太平小学校


 ▲緑の矢印が撮影場所 大きな地図で見る

太平(たいへい)は古くは「オイダラ」と呼ばれた。大江氏の居住した所という意で、「大江平」(おおえだいら)の訛ったものという説がある。

しかし、これはどうもこじつけである。「山の麓の動揺する地」(湿地のため)ではないだろうか。これは、東北方言の古語まで遡った語源調べから分かったことである。

実際、太平の中心地である目長崎は、太平川の洪水にしばしば見舞われる湿地帯に太平城が存在する地域であった。

太平は「オイダラ」の当て字である。これが他国の者に「タイヘイ」と読まれたり、オイダラの連想から「オオダイラ」と呼ばれたのだろう。

したがって、寛永元(1624)年9月の「太平山下がり」(佐竹家譜)も「大江平下タ狩」(秋田沿革史大成)もオイダラの当て字である。太平という当て字はお上に報告する文章のために使われたのだろう。

明治22(1889)年の市町村制施行で、太平地区の合併した新村名でオイダラ村と称した。

今日でも、オイダラ牛とかオイダラ衆とかの言葉が残っている。

【歴史作家・土居輝雄】

※土居さんの「佐竹城下を歩く」は週刊アキタに好評連載中。